これまでの今週のことば
2026年1月11日
イザヤ書55章8節―9節
「8わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたたちの道と異なると主は言われる。9天が地よりも高いように、わたしの道はあなたたちの道より高く、わたしの思いはあなたたちの思いより高い。」
私たちは、自分の人生のことは自分が一番よく知っていると思いがちです。しかし、実際はそうではありません。私たちのことを一番よく知っておられるのは神様です。なぜなら、神様が私たちを造られたからです。私たちには信仰が必要です。それは、神様にすべてを委ね、希望を持って生きるということです。人生には良いこともあれば、そうでないこともあります。そのような時、「なぜこんなことが起こるのか」と思うこともあるでしょう。しかし、神様にはご計画があります。だからこそ、私たちは神様に信頼し、信仰をもって生きることが大切なのです。
自分の願いがかなう時や、物事が思い通りに進む時に神様を信じることは、比較的簡単です。しかし、そうではない時に神様を信じ続けることは難しいものです。けれども、まさにそのような時にこそ、神様は私たちが神様を信じることを願っておられます。
時には、神様が私たちの状況をすぐには変えてくださらず、むしろ苦しみが続くように思えることもあります。しかしそれは、神様が私たちのために、より良いご計画を持っておられるからです。もし私たちが、「主にお会いできる間に」、また「近くにおられるうちに」主を求め、自分の思いや考え、計画を手放して主に立ち返るなら、主は私たちを憐れみ、豊かに赦してくださいます。神様は、私たちのために、いつも最善のご計画を持っておられるからです。(ラパイ師記)
2026年1月4日
イザヤ書43章18節―19節a
「18 初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。 19 見よ、新しいことを、わたしは行う。」
新年明けましておめでとうございます。 このようにして新年礼拝をささげることができる恵みを、心から感謝いたします。2026年が始まりました。この一年、神様がどのような恵みを与えてくださるのか、期待をもって待ち望みたいと思います。
神様は2026年に、あなたと共に新しい御業を行うことを願っておられます。ですから、私たちの苦しみ、悲しみ、悩み、そしてさまざまな過去の出来事を、すべて2025年に置いていきましょう。人生の中で苦しめられたこと、いじめられたこと、あるいは赦すことが難しい出来事も、2025年にあったかもしれません。しかし、それらを神様の前に委ね、赦し、手放していきましょう。
聖書は、神様が「新しいことを行う」と語っています。神様がなさる新しい御業に用いられるために、私たちは御言葉を心に受け入れ、備えることが大切です。そうすると、私たち一人ひとりの人生に、神様の新しい御業が表されていきます。2026年、私たちにとって特に大切なことは、御言葉と共に生きることです。
日々の生活の中で、さまざまな困難や苦しみに直面し、「神様は私をお忘れになったのではないか」と思ってしまう時があるかもしれません。先が見えず、これからどのように進んでいけばよいのか、迷うこともあるでしょう。しかし、神様は決して私たちをお忘れにはなりません。「もう道がない」と思えるその時こそ、主が道を開いてくださいます。その御言葉の約束を信じて、この一年も主と共に歩んでいきましょう。(ラパイ師記)
2025年12月28日
マタイによる福音書1章18節〜25節
イブの証でHSPについて聞きました。HSP(Highly Sensitive Person:ハイリー・センシティブ・パーソン)とは、生まれつき「非常に感受性が強く、繊細で敏感な気質を持つ人」を指し、病気ではなく生まれつきの性質です。音、光、匂いなどの感覚刺激に過剰に反応しやすく、他人の感情にも共感しやすく、物事を深く考えすぎるため疲れやすいのが特徴で、人口の約15〜20%(5人に1人)が当てはまると言われています。そして六年前に「自分がそれだ」と言って本を渡されて「読んで私を理解して欲しい」と言われたことを思い出しました。
学校では群れることを嫌い一人でいることを好みましたが、誰かが傷ついていたら、誰よりも早く気付いて、誰よりも上手に寄り添っていました。大学は神学部を目指していましたが、「神様と私はもう離れることはない」と言って哲学科に変更しました。大学卒業後は一度一般企業に就職しましたが、ペースが合わず現在は長野の工務店の事務や営業をやっています。
彼女は自分を理解してくれる人たちと共にゆっくりと自然の中で感受性豊かに暮らしています。彼女に会う機会があり彼女が提供する藍染やスローライフを経験してきました。彼女が選んだ生活や生き方の方が本来私達人間が歩むべき道だと感じました。とうの昔に失ったことや忘れてしまったこと、憧れや願望がそこにはぎっしり詰まっていました。人間らしい生活とは、意識していないと簡単に踏み外してしまうものだと実感しました。新しい年、迷った時は人間らしい方を選べる者でありたいと思います。それが何よりも自分の心を守ることであり、そこに命の源があるのだと思います。(藤本 忍牧師)
2025年12月21日
「クリスマス 礼拝」ルカによる福音書2章1〜11節
Merry Christmas「メリークリスマス!」
2025年のクリスマス礼拝にお越しくださり、心より感謝申しあげます。神様のひとり子が人としてお生まれになったこのクリスマスの時、皆様の上に神様の愛と平和、希望と喜びがありますようにお祈りいたします。
私たちはそれぞれ、人生の中でさまざまな悩みや課題を抱えています。時には、「もう無理だ」「誰にも理解してもらえない」と、あきらめてしまいそうになることもあるでしょう。しかし、イエス様と出会うなら、イエス・キリストは私たちの人生を助け、変えてくださいます。私たちは苦しみや悲しみに出会いますが、主イエス・キリストにある喜びは、どのような時、どのような状況の中でも失われることのない、永遠の喜びです。
このクリスマス、皆様が救い主イエス・キリストと出会うことができますように。イエス・キリストを救い主として信じるとき、悲しみは喜びに、絶望は希望に、不平不満は感謝へと変えられます。
「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」とあります。イエス様が、あなたのため、私のために生まれてくださったことを心に受けとめ、喜びをもって主と共に歩んでまいりましょう。(ラパイ師 記)
2025年12月14日
「アドベント第三主日 礼拝」ルカによる福音書2章1〜7節
クリスマスを私たちが喜び祝うのは、クリスマスにお生まれになったイエス様が「私のために来られた方」、そして「私に代わって十字架に架かってくださった方」であることを、心から受けとめているからではないでしょうか。なぜ、神の御子であるイエス様が飼い葉桶に寝かされたのでしょうか。それは、どんな小さな者、弱い者、貧しい者とも共におられ、決して見捨てず、必ず救ってくださるという神様の御心の現れでした。そして、この御心が最もはっきりと示されたのが十字架です。イエス・キリストは、最も低く、最も貧しく来られ、私たちの罪の身代わりとして死なれました。心を開き、「イエス様、あなたを信じ、心にお迎えします。どうか私の心に宿ってください」と告白し、イエス様を心の中にお迎えしましょう。(ラパイ師記)
2025年12月7日
「アドベント第二主日 礼拝」ルカによる福音書1章26〜38節
(アドベント)第2週目に入りました。アドベントとは、イエス様のご誕生をお祝いするクリスマスを迎えるために、心を準備して待ち望む期間です。
世界中には、クリスマスの時期を迎えても、さまざまな事情によって喜ぶことができない人々がいます。けれども、救い主イエス様のご誕生は、全世界のすべての人々、苦しみの中にある人々、悲しんでいる人々、つらい状況に置かれている人々のためにあります。
クリスマスの楽しい歌を歌い、礼拝を守りながらも、心の中に苦しみや悲しみ、痛みを抱えている方もおられるかもしれません。しかしイエス様は、私たちの苦しみや悲しみを祝福へと変えてくださるために来られました。
このアドベントの期間、私たち一人ひとりが心を静め、イエス様のご誕生を心から喜び、感謝する準備をしていきたいと思います。そして、イエス様の愛・希望・喜び・平安が、世界中の苦しむ人々、弱り傷ついている人々、孤独や悩みの中にある人々へと広がっていくように、皆さんと共に祈りを合わせたいと思います。イエス様のご誕生を心の準備をもって祈りながら、共に待ち望みましょう。(ラパイ師記)
2025年11月30日
「アドベント第一主日 礼拝」ルカによる福音書 14章1〜6節, マタイによる福音書 16章24〜25節
映画「ボンヘッファー〜ヒトラーを暗殺しようとした牧師〜」を観ました。なぜかあるシーンからずっと涙が止まらず、自分でも理由がわからないほど、泣き続けました。今でも訳がわかりませんが、かなり浄化されたのは確かです。映画館に入る前と後では、自分の心が変わったのがわかりました。
戦争の最中、ユダヤ人を虐殺するヒトラーを暗殺しようとして牧師を皆さんはどう思いますか。宗教家は内面的な問題を扱うべきであって、このような政治的、社会的問題には応答する必要はないのでしょうか。
当時も、当然このような批判はありました。しかし、彼はこう言います。「車が暴走して子ども達を轢き殺していくなら、轢かれた子どもに包帯を巻くのも、暴走する車を止めるのも、牧師の仕事です。たとえ暴力を使ってでも車を止めなくてはならない。」彼がこのように考えるようになった背景、根拠を今日は聖書から読み解きたいと思います。(藤本師記)
2025年11月23日
「収穫感謝礼拝」ルカによる福音書 17章11〜19節
私たちは、恵みを与えてくださるお方に振り向くことを、つい忘れてしまうことがあります。この聖書箇所を読むと、十人の人すべてがイエス様に感謝すべきだったと私は思います。しかし、感謝をささげたのは一人のサマリア人だけで、イエス様の足もとにひれ伏して感謝したと書かれています。では、私たちは十人のうち、どちらの仲間でしょうか。神様の愛を確かに受けているにもかかわらず、「癒された」「守られた」という恵みに気づかず、感謝を忘れてしまう九人のようになっていないでしょうか。改めて考えさせられます。
また、私たちは「神様にささげる」と聞くと、どうしてもお金のことを思い浮かべがちです。特に経済的に厳しい方は重荷を感じることがあるかもしれません。しかし神様は、私たちのお金を必要としておられるのではありません。神様が願っておられるのは、私たちの心です。ささげものとは、お金だけではなく、時間(神様に祈る、礼拝する時間を大切にする)。賜物(神様から与えられた賜物を用いて奉仕する。働き(自分のための時間を少し減らし、神様との交わりの時間を増やす)など、さまざまな形で表すことができます。神様は私たちの外側ではなく、心をご覧になられます。
最後に、人と人との間で「ありがとうございます」と言えるなら、なおさら神様への感謝を思い起こし、神様に「ありがとうございます。感謝します」といつも言うべきではないでしょうか。困難の中にあっても恵みを数え、神様が私たちに与えてくださった恵みを思い起こし、心から感謝して歩んでまいりましょう。(ラパイ師記)
2025年11月16日
「詩編100編1〜5節 」
なぜ私たちは神様を賛美するのでしょうか。神を賛美すべき理由とは何でしょうか。この詩編は、すべての人が主を王として迎え、主に喜びの叫びをあげ、主に仕える者となるようにと呼びかけています。
人生には確かに困難が多くあります。しかし、私たちは目の前の問題だけを見るのではなく、感謝すべきことに目を向け、主に仕えましょう。私たちは主に属する民とされた者として、感謝をもって主の門に入りましょう。神様をほめたたえるためには、神様のしてくださった良いことを忘れないことが大切です。困難の中でも恵みを数え、神様が私たちに与えてくださった祝福を思い起こしましょう。聖書には「主はすべての咎を赦し、すべての病を癒してくださる」と書かれています。イエス様の十字架による赦しこそ、最大の恵みです。それは私たち一人ひとりに確かに与えられています。
最後に、私たちの人生には主がしてくださった多くの恵みがあります。その恵みの素晴らしさ、主の深い憐れみを思い起こし、心から感謝を捧げましょう。神様は私たちの心を見ておられます。今日からの一週間も、神様の恵みに応え、感謝をもって歩んでいきましょう。(ラパイ師記)
2025年11月9日
「マタイによる福音書 22章37〜39節」
毎週、多くの施設や病院を訪ねる中で、最も耳にする言葉がある。「もう生きている意味が分からない」。治療の望みがなく、痛みが増し、家族も友も訪れない部屋で、テレビと天井だけを見つめながらこぼれる叫びである。チャプレンである私は肉体の痛みを取り除くことはできない。それでも、その人が生きてきた物語に耳を澄ますことはできる。
ホスピスで出会ったBさんは、長きに亘って工事現場で働き、自らが造った小さな橋の話を語った。私はその橋を訪ね、子どもたちが笑顔で渡る姿を伝えると、Bさんは「よかった」と微笑んだ。その瞬間、“生きた証”が確かに輝いたのを感じた。辛い闘病で生きる意味は見失われることがある。だが、誰の人生にも、誰かの未来を支える「残るもの」が必ずある。その人が生きてきた証を共に見いだすこと――それこそが、スピリチュアルケアの使命なのだと思う。(関野 和寛師記)
2025年11月2日
「コリントの信徒への手紙一 15章50節〜58節」
人は必ず死ぬ。これは誰もが知っていることです。しかし、死んだあとどうなるのかを、誰も確かに知っているわけではありません。そのことについて聖書は、「復活がある」「死はすべての終わりではない」と告げています。
コリントの信徒への手紙一 15章でパウロが語っているのは、イエス・キリストを信じる者たちは、この世の終わりの日、主イエスの再臨の時に復活し、新しい体、すなわち霊の体を与えられるという、信仰における究極の希望です。その希望の確かな保証こそ、主イエス・キリストの復活でした。
今日ここで覚える召天者の皆さんは、それぞれの地上の生涯を歩まれました。大きな働きをされた方もいれば、目には小さく見える働きだった方もいるかもしれません。
しかし神様の前では、すべての方が同じように尊いのです。神は言われます。「よくやった。あなたは信仰をもって最後まで走り抜けた」と。そして今、彼らは義の栄冠を受け、天の御国で私たちを待っておられます。私たちも、その方々に倣う者となりましょう。彼らと共に義の栄冠を受け、天の御国で永遠の時を共に生きる者として、この地上の生涯を最後まで忠実に全うしていこうではありませんか。
最後に、宗教改革者マルティン・ルターの言葉を思い起こします。「たとえ明日世界が滅びようとも、私は今日、りんごの木を植える。」皆さん、私たちもこのように歩もうではありませんか。たとえ明日、私の人生が終わるとしても、今日、愛の種をまき、神の御言葉を伝え、神に仕え、人々を助け、分かち合って生きる。そして、「死は終わりではない。イエス・キリストを信じる者は、その先にイエス様と共に“パラダイス”、永遠の安息に入れられる」という希望を もって、生きていこうではありませんか。(ラパイ師記)
2025年10月26日
「ヨハネによる福音書15章11〜17節」
ヨハネによる福音書15章16節には、
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と記されています。 主イエスは、なぜあなたを選ばれたのでしょうか。それは、あなたを愛する対象として選ばれたからです。私たちは、自分で選んでイエス様を信じたように思うかもしれませ。けれども、実際にはそうではなく、イエス様が私たちを選んでくださったからこそ、今ここにいるのです。
私たちは「自分の意思で教会に来た」と思いがちですが、実は主によって導かれ、招かれてここにいるのです。主イエスの選びは、優秀な者を選び出すことではありません。この「選び」とは、主イエスが私たちに与えてくださる「主との出会い」なのです。
私たちにとって最大の恵みは、やはり十字架です。命を捨てるほどの愛、イエス・キリストが十字架にかかり、身代わりとして死なれ、私たちのために贖いの代価を支払ってくださったこと。そこに、私たちはとどまり続ける必要があります。
「それほどまでにキリストに愛されている」ということを、しっかり心に刻みながら生きていきましょう。毎日、「私は愛されている。イエス様に命がけで愛されている」と感謝しながら生きること。それが、キリストにとどまるということの一つの意味です。
どんなことがあっても、私たちを愛し続けてくださる神の愛を喜びましょう。その愛を深く喜ぶとき、「互いに愛し合う」ことも可能にされるのです。私たちは、神の目的を果たすために実を結び、主の命令に従い、互いに愛し合いながら歩んでいきましょう。(ラパイ師 記)
2025年10月19日
「ヨハネによる福音書15章1〜7節」
主イエスは、ヨハネによる福音書14章31節で、
「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」と言われました。では、どこに向かわれたのでしょうか。ゲッセマネの園です。そのゲッセマネの園に向かう途中で、イエス様が弟子たちに語られた内容が、今日の箇所です。イエス様は、「わたしはまことのぶどうの木です」と語られました。この言葉を通して、主は何を私たちに教えようとしておられるのでしょうか。なぜ「ぶどうの木」というたとえを用いられたのでしょうか。
「ぶどうの木」は、神の民イスラエルを象徴しています。イザヤ書5章、エゼキエル書19章、詩編80編などにも同じ象徴が見られます。神様はイスラエルを愛し、ご自身との深く豊かな交わりを望まれました。しかしイスラエルは良い実を結ぶことができず、神を信頼せず、他の神々に心を向けてしまったのです。
実を結ぶために必要なのは、「とどまること」です。ぶどうの枝が木にとどまるように、私たちもイエスにとどまらなければなりません。とどまることによってのみ、私たちは「互いに愛し合う」という戒めを守ることができるのです。
私たちの人生で大切なのは、「何をするか」ではなく、「何につながっているか」です。キリストにつながっている人は、多くの実を結びます。神様は、私たちが豊かに実を結ぶことができるように、愛をもって手入れし、導いてくださいます。私たちはただそのことを信じて歩めばよいのです。父なる神が農夫であり、私たちを整え、必要な栄養と祝福を、イエス様という木から毎日与えてくださるのです。主につながり、実を結びましょう。(ラパイ師 記)
2025年10月12日
「出エジプト記 17章8節〜16節」
私たちの祈りは、人生の戦いにおける決断です。私たちは、日々さまざまな戦いに出会います。試練の戦い、問題の戦い、経済的な戦い、病との戦い、人間関係の戦い──それらに勝利できるかどうかは、祈りにかかっています。もし祈ることをやめてしまえば、人生の戦いに敗れてしまうのです。だからこそ、祈りは欠かせません。神様の導きがなければ、私たちは勝利できないのです。ですから、神様にすべてを委ね、手を上げて祈ることが大切です。
今日の聖書箇所に登場するアマレクとの戦いでは、モーセも、アロンとフルも、ヨシュアも、それぞれが重要な役割を果たしました。モーセがどんなに一生懸命に祈っても、ヨシュアと民が戦わなければ勝てません。同時に、ヨシュアたちがどんなに力強く戦っても、モーセが祈りをやめればイスラエルは優勢にならないのです。モーセが手を上げ続けられたのは、アロンとフルの支えがあったからです。
この場面から学べるのは、誰もが自分の役割を忠実に果たすことの大切さです。家族でも、職場でも、教会でも、互いに支え合い、それぞれが与えられた務めを文句なく果たすとき、神の勝利が現れます。祈る人も、支える人も、戦う人も、みな神の働き人です。神の栄光と神の家族の勝利のために、自分の役割を果たしていきましょう。(ラパイ師記)
2025年10月5日
イエス様の祈り――「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」――は、あの時の兵士や群衆のためだけではなく、今を生きる私たちのための祈りでもあります。
私たちがどんなに過去に間違いを犯しても、どんなに自分を責めていても、キリストは「赦してください」と祈っておられます。そしてその祈りは、十字架と復活によって現実となりました。赦しとは、ただ罪をなかったことにするのではなく、新しい命を与えることです。
今日この後、聖餐式を行います。十字架で流された血潮は、あなたのため、私のための赦しのしるしです。イエス様は今も私たちに語っておられます。「父よ、彼らをお赦しください。」「今日、あなたは私とともにパラダイスにいる。」このイエス様の言葉を信じ、赦しと新しい命を受け取りましょう。
さらに覚えたいことは、イエス様が今も私のために、とりなしの祈りをしてくださっているということです。私たちもまた、周りの人々のため、日本のため、そして世界中の人々のために、とりなしの祈りをしてまいりましょう。
最後に、人生には「なぜこうなったのか分からない」ことがあります。自分でも「何をしているのか分からない」と感じる時もあります。けれども、それでも主は「あなたは確かにパラダイスに入る」と約束してくださいます。大切なのは、「赦されやすい信仰者」であることです。「悔い改めやすい信仰者」であることです。「自分のような者は赦されない」と思い込んで、十字架から離れてしまわないことです。何度でも、何度でも、十字架の前に進み出る一週間となりますように、心から願います。(ラパイ師記)
2025年9月28日
23日に文化祭が終わりました。その途端、「教員室に○○が余っています。先生方、買って下さい。」とアナウンスが入った。冷凍餃子、トッポギ、焼きそばのキャベツ、ペットボトルの甘い紅茶。想像を超えたのが、ピーカンナッツ300個残。ある団体が発注ミスをしたのか、それとも想像以上に来客が少なかったのか、前代未聞の大赤字だ。
私は教員だけでは限界を感じ、購入してくれそうな人たちに連絡を取った。保護者、友人、卒業生、そして教会。「ピーカンナッツと乾燥ワカメが余っています。購入して下さる方はいませんか。東北支援になります。」暫くの沈黙の後、スマホが「ブー、ブー、ブー」と鳴り始めた。
着信音が止まらない。「10個買います」「一箱買います」「2個でもいいですか?」「4個下さい」。誰かが困っていることを伝えた時に、ここまで友人らが協力してくれるなんて、心底有難かった。中には「大師の子ども食堂に贈りたい」という方もいた。親身になってくれることが本当に嬉しかった。それがギフトだと思った。
現在に至るまでに約20(+教員20)名の方が協力してくれて約220個売ることができた。あと少し。私達が頑張れたのは、「決して東北の人達を忘れない」という気持ちがあったからだと思う。(藤本師記)
2025年9月21日
「ルカによる福音書15章11〜32節」
今日の聖書の御言葉は、あまりにも有名なイエスによって語られた譬え話ですので、皆さんもよくご存じなのではないでしょうか。
聖書には、神様の愛と豊かな喜びが約束されています。もう駄目だと思う時にこそ、この御言葉を思い起こすと、悲しみの中にも救いの道が与えられ、私たちには立ち返って生きていく道があることがわかります。
息子(弟)がお父さんから離れていったように、私たちも神様に背を向け、自分の正しいと思う道や、自分のやりたいと思う道を歩んでしまうことがあります。
しかし、自分が選んだ道に本当の幸せはないと気づく時、この息子(弟)ように、神様に立ち返る必要があるのです。父の家にパンが余っていたように、神様のもとには愛と祝福が満ち溢れていることを、私たちは知ることができます。イエス様がこの譬え話を通して伝えたかったのは、そのことだと思います。
もう自分の人生は駄目だとあきらめて、絶望に嘆き苦しむ必要はありません。主イエスは、この譬え話に示された神様の愛をご自身の生き方を通して表されました。それが十字架です。私たちを赦し、救うために、ご自身が恥(罪)を引き受けられたのです。だから、たとえ私たちがこの息子(弟)のような立場に陥ったとしても、主イエスは「あなたはやり直せる」と招いてくださるのです。そして「あなたを愛しているよ」と語ってくださるのです。(ラパイ師記)
2025年9月14日
「ルカによる福音書15章1〜10節」
本日の題は「私たちは主のもの」です。イエスさまは、取税人や罪人と呼ばれる人たちと親しくされました。その姿を見て、パリサイ人や律法学者たちは不満を言いました。そこでイエスさまは二つのたとえ話をされました。
一つは、百匹の羊のうち迷った一匹を探し出す羊飼いの話、もう一つは、十枚の銀貨のうち一枚を失った女が、家中を掃きながら必死に探す話です。
私たちは皆、見失われた一匹の羊、また一枚の銀貨のような存在ではないでしょうか。これが罪人であるということです。誰一人として神様の前で「私は九十九匹の側にいます」と言える者はいません。しかし、そのような私たちを探し出すために、父なる神様は独り子イエス・キリストを与えてくださいました。一匹を愛おしむ神の愛の現れこそ、主イエスの誕生であり、十字架であり、復活なのです。
羊飼いにとって羊は自分のものであり、女性にとって銀貨は自分のものでした。同じように、神様が私たちを探し求めてくださるのは、私たちが神様のものであり、神の前に尊い存在だからです。 イエスさまの愛の中に置かれていることを、もう一度心に刻みましょう。そして与えられた尊い人生を、神の喜びを胸に歩んでいきたいと思います。(ラパイ師記)
2025年9月7日
「マタイによる福音書26章17節〜25節」
悔い改めのチャンスは誰にでも与えられています。ユダには最後の最後まで「立ち返るチャンス」がありました。私たちもまた、日々の生活の中で失敗したり、裏切ったりしてしまうことがありますが、そのたびにイエス様は「戻ってきなさい」と声をかけてくださっています。自分の弱さを隠さずに、主の前に差し出すことが大切です。
ユダは絶望して自ら命を絶ちました。しかし、ペテロは三度否んだあとに泣いて悔い改め、立ち返りました。どちらも弱さを持った弟子ですが、違いは「悔い改めてイエスのもとに戻ったかどうか」でした。
私たちも家族や友人、職場の仲間との間で、約束を破ったり、相手を傷つけてしまうことがあります。そのとき、「もうだめだ」と諦めるのではなく、素直に「ごめんなさい」と悔い改め、やり直すことができます。イエス様はその勇気を与えてくださいます。失敗したときこそ、隠さずに主に差し出すことが大切です。
最後に、この聖書箇所は「私たちが悔い改める機会を得るために、命の犠牲が捧げられた」ことを思い起こさせます。イエス様は十字架にかかるとき、心も体も深い苦しみを負われました。それは「私のため、あなたのため」でした。そのイエス様の思いを心に覚えて、聖餐式にあずかりましょう。私たちにも弱さがあり、失敗も多くあります。けれども、主の愛とその眼差しをいつも受け取りつつ、自分の弱さを認め、失敗したときには立ち返り、「主よ、あなたについていきます」と告白しながら、これからの信仰生活を歩み、主と共に生きていきましょう。(ラパイ師記)
2025年8月31日
「エフェソの信徒への手紙 2章1〜10節」
今日の聖書箇所10節に「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」と言っています。
罪に満ちた私たちの為に、私たちに代わって主イエス・キリストが十字架の上で死んで下さった。私たちが受けるべき裁きを、主イエス・キリストが代わって受けて下さった。ただそのことの故に救われ、神の子とされ、永遠の命に与る者とされたのであります。ただ恵みによって、一方的な愛によって救いに与ったのですから、キリスト者は自らが救いに与ったことについて、何も誇るところはありません。ただ神様の恵みに感謝し、喜び、神様をほめたたえるのです。
この箇所を通して、私たちは自分がどれほどの恵みを受けているのかを改めて思い起こさせられました。私たちは神の憐れみによって命を得、キリストと共に新しい命を歩んでいます。そして、神の恵みによって救われた私たちは、今度はその恵みを生きることで周りの人々に伝えていく責任を持っています。私たちが恵みの中で生きるとは、ただ神からの贈り物を受け取るだけではなく、それを周りに広げ、神の愛と救いを実践することです。
皆さんが毎日の生活の中で神の恵みを感じ、その恵みに応え、他者に伝える存在となりましょう。主と共に喜びをもって生き、この福音を力強く伝えていこうではありませんか。(ラパイ師記)
2025年8月24日
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている」と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。 そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く」エレミア書 29章11―12節
神の御業とは何でしょうか。聖書は「どんな道の先にも希望がある」と約束します。神に目を向ける時、私たちは倒れても再び立ち上がることができます。しかし現実には、ミャンマーはいま大変困難な状態にあり、多くの人が命を奪われ、悲しみと不安の中にいます。「神様、なぜこのようなことが起こるのですか。見捨てられたのですか。」――そのような叫びがあふれています。特にカチン、チン、カレン州では激しい内戦が続いています。それでも私は信じます。クリスチャンである彼らと世界中の祈りのゆえに、大きな軍の力にも負けず、守りと勝利が与えられることを。
私たちは信じます。この困難の先に、神様がミャンマーに最善を成し、大きなリバイバルを与えてくださることを。だから祈りをやめず、すべての中に神の御業を見る者とされたいのです。
そして、この御言葉はミャンマーだけではなく、私たち一人ひとりの人生にもあてはまります。人生には思いがけない試練や悲しみがあります。なぜ、と神様に問いかけるときもあるでしょう。けれども、神様のご計画は「災いではなく、平和と希望を与える計画」です。ですから私たちも、希望を失わず、神様を呼び求め続けていきましょう。必ず主が耳を傾けてくださいます。(ラパイ師記)
2025年8月17日
ペトロの手紙一 2章1節〜10節
「カチン民族の99%がクリスチャンになった歩み」宣教師が初めてカチン民族に来たのは1878年でした。当時、カチン民族は梅毒や淋病などの病気で多くの人々が命を落とし、「50年以内に絶滅してしまうだろう」とさえ言われていました。しかし、アメリカから来た宣教師たちの伝道により、カチン民族は聖書の御言葉を知り、それを信じ、従うことで、今日まで生きることができました。
福音を信じ続けて100周年を迎えた1977年12月、カチン州で感謝会が開かれました。その時、100人の牧師によって6,214人が、わずか1時間のうちにバプテスマを受けました。感謝会の後、300人の人々が無給で3年間、カチン民族の住む各地で福音を伝えました。これを 「3/300ミッション」 と呼びます。
「3 」はイエス・キリストが地上で3年間福音を宣べ伝えたことを表し、「300 」 は聖書(士師記7章1〜25節)に出てくるギデオンの兵士の数を象徴します。
参加者たちは1979年2月20日に宣教を開始しましたが、その前に40日間のトレーニングキャンプで聖書を学びました。これは、イエス様が宣教を始める前に40日間断食し祈られたことを手本としたものです。彼らは自らをギデオンの兵士、キリストの兵士、サタンに打ち勝つ主の兵士と考え、誇りと勇気、力を得て賛美しながら出発しました。
3年間の集中宣教の後、1981〜1982年には 「フォローアップ・ミッション」 が行われ、信仰に導かれた人々をさらに養いました。1983年からは教会を中心に、教育、健康、農業、商業、法律など、生活全体に関わる働きと共に伝道が進められました。
2025年8月10日
マタイによる福音書 11章28節,コリントの信徒への手紙第二 5章17節
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリントの信徒への手紙二 5章17節)
「キリストに結ばれている人」とは、「キリストと信仰によって結ばれている人」、また「キリストと聖霊によって結ばれている人」のことです。この御言葉は、古いものと新しいものとの断絶を示しています。
[古いもの」は過ぎ去り、「新しいもの」が取って代わったのです。私たちは、イエス・キリストと共に十字架につけられた者です。主イエスは、十字架の上で私たちの罪の贖いの供え物となり、ご自身の血を流してくださいました。そして私たちは、その十字架にあずかる者とされたのです。
私たちが今、このようにイエス・キリストの父なる神を礼拝することができるのは、ただただ神の愛と憐れみによるものです。「私」という古い自分が、復活されたイエス様と共に死に、今はイエス様が私のうちに生きておられる。この「新しい者」とされた恵みを、いつも忘れずにいたいのです。
パウロがダマスコでイエス様と出会う前には、自分がどれほど学識があるか、聖書を知っているか、どれだけ正しいことをしているか。そうした律法的な目で人を見たり、人を判断したりしていました。しかし、彼は「キリストにあるならば、すべてが新しくなる」というこの御言葉通り、自分の今までの生き方・見方・考え方が一新される体験をしたのです。
私たちも、知らず知らずのうちに、人を見るときに「人間的な見方」で見てはいなかったでしょうか。けれども、キリストの愛によって生かされ始めたとき、人は誰でも変えられるのです。「古いもの」は過ぎ去り、「すべてが新しく」されます。そして、私たち自身の生き方、見方、考え方も、キリストによって新しく生まれ変わるのです。(ラパイ師記)
2025年8月3日
イザヤ書26章7節〜13節
平和とは何でしょうか。
私たち一人ひとりが持っている「平和」の定義は、それぞれ異なるかもしれません。けれども、聖書の中には、平和について明確に示している箇所があります。
エフェソの信徒への手紙2章14節には、こう記されています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し――」
ここでパウロは、エフェソの教会に向かって、「キリストこそ、わたしたちの平和である」と語っています。では、この箇所で語られる「二つのものを一つにする」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、ユダヤ人のキリスト者と異邦人のキリスト者を指しています。本来は異なる背景を持つ人々が、主イエス・キリストによって、同じ霊に結ばれ、共に神に近づく者とされる――これこそが、聖書が語る平和なのです。
今私たちが生きているこの時代も、国と国との争い、同じ民族同士の戦いが続いています。さらに言えば、教会の中でさえ、家庭や人間関係の中でも争いが起こることがあります。そこには平和が欠けている現実があります。しかし、私たちが主イエス・キリストを心に受け入れ、イエス様の愛と支配のもとに生きるとき、主が十字架で示された赦しと愛によって、私たちは互いに愛し合い、赦し合う者へと変えられていきます。「敵」と見る相手に対しても、その関係が回復され平和へと導かれるのではないでしょうか。
私たちの人生にも、様々な戦いがあります。けれども、私たちの主は、今日も、明日も、平和を備えてくださるお方です。不安な時こそ、主の平和に目を向けましょう。弱さを覚える時こそ、「すべては主の御業です」と感謝しましょう。「主よ、あなたが私たちのために平和を備えてくださいます。」 この信仰の言葉を、心に深く刻み、今週も主と共に、喜びをもって歩んでいきましょう。(ラパイ師記)
2025年7月27日
テサロニケの信徒への手紙3章 6節〜15節
テサロニケ教会の人々も、苦難の中で「もう終わりの時が来た。こんなに苦しいのだから、終わりの時が始まっているのだ」と考えるようになり、仕事をしなくなってしまいました。
皆さん、もし明日が世界の終わりの日だったら、今日何をしますか? 私は自分の子ども二人にこの質問をしました。娘はテレビドラマが大好きなので「一日中、好きなドラマを見る」と答えました。息子は「一日中、好きな漫画を読む」と言いました。皆さんなら、どうしますか? 私は、一日中賛美して過ごしたいと思います。
今日の聖書の箇所は、今の私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。「避けなさい」「かかわりを持つな」「働きたくない者は、食べてはならない」といった言葉に対して、パウロが本当に伝えたかったことは何でしょうか。
それは、12節の言葉にあると思います。
「そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。」とあります。ここで言う「仕事」とは、日々の日常生活のことを指しているのだと思います。
パウロは「日々の暮らしを落ち着いて過ごし、一日一日を大切にしてしっかりと生きなさい。命をつないでいきなさい」と語っているのです。このパウロの思いを、宗教改革者マルチン・ルターはこのように代弁しています。「たとえ明日が世界の終わりの日であっても、私は今日、りんごの木を植える」。これは、「たとえ終わりの時が迫っていても、今この日常を大切に生きなさい。一日一日、命をつないでいきなさい」という意味です。慌てふためくことなく、毎日主を賛美しながら、日々の生活を丁寧に生きていくこと。「今日を生きる」ことが、何よりも大切なのだと思います。 (ラパイ師記)
2025年7月20日
ヨハネの福音書8章1節から11節
マタイによる福音書7章1〜3節にはこう書かれています。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」
これは、私たちにとってとても大切な教えです。人は、他人の罪にはすぐに気づくのに、自分の罪には気づきにくいものです。ヨハネによる福音書8章1〜11節に記されている姦淫の女性の姿は、まさに私たち自身の姿です。イエス様は、この女性を赦し、恵みに満ちた新しい世界へと送り出してくださいました。罪を犯さずに生きることができない私たちは、彼女の中にこそ自分の姿を見るべきではないでしょうか。
今日の聖書箇所(ヨハネによる福音書8章)を、ぜひ皆さんもこの女性の立場になって、もう一度読んでみてください。きっと、イエス様によって彼女が受けたあの心の変化が、自分にも重なってくると思います。
私たちも、どんな過去があっても、どんな失敗をしていても、大丈夫です。自分の弱さを正直に認め、イエス様の十字架を思い起こしながら、「イエス様、こんなに弱い私ですが、どうか助けてください」と祈っていきましょう。
そのとき、イエス様は彼女に語られたように、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」という言葉によって、私たちを赦してくださいます。この言葉によって、彼女は罪から解放されました。私たちもまた、罪を背負って歩むのではなく、イエスによって罪を赦され、新しい命に生きる者として、これからも主とともに喜びをもって歩んでいきましょう。(ラパイ師記)
2025年7月13日
マタイによる福音書 6章25〜34節
私たちが日々の生活の中で心配や不安を抱えるとき、イエスの言葉を思い出しましょう。神様は、私たちの必要をご存じであり、そして私たち一人ひとりの価値を深く理解してくださっています。
イエスは、私たちが思い煩わずに過ごせるよう、「今日」に集中して生きることの大切さを教えてくださいました。明日や来月、来年のことまであれこれ考えすぎると、どうしても不安や心配が大きくなってしまいます。ですから、一日一日、神様から与えられた恵みに感謝しながら歩んでいくことが大切です。イエスは「明日のことを思い悩むな」と言われました。明日は明日の苦労があるのですから、今日できることに集中していきましょう。
神様は、私たちの一歩一歩を確実に導いてくださっています。今日の恵みに感謝し、明日のことは神様にお委ねしましょう。主の導きを信頼し、自分の願いや悩みを神様に祈り求めていくとき、聖霊によって真の平安が与えられます。そして、一日一日を大切に生きることこそが、信仰者の歩みとなるのです。
最後に、私たちにとって本当に大切なことは「どこにいるか」ではなく、「誰と共にいるか」です。与えられた今日という一日を、主と共に、心配せず、思い煩わず、感謝しながら歩んでいきたいと思います。
今、私たちの人生で何が必要なのか、どんな問題や悩みに直面しているのか。たとえば、心の中で悲しんでいたり、寂しさを感じていたり、一人で孤独だったり、希望を失いかけていたとしても、神様はすべてをご存じです。なぜでしょうか?それは、神様が私たちのことをいつも心にかけてくださっているからです(ペトロの手紙一 5章7節)。
ですから、私たちのあらゆる思い煩いを、神様にお委ねましょう。自分の力や知恵、能力に頼るのではなく、すべてを神様にお任せして、主と共に歩んでいきましょう。(ラパイ師記)
2025年7月6日
ヨハネの手紙一4章7〜12節
愛が求められるこの時代に、「君は愛されるために生まれた」というメッセージを伝えましょう。親子の愛、兄弟の愛、友情、男女の愛、夫婦の愛、さまざまな愛がありますが、それらはすべて不完全なものです。主イエス・キリストの十字架による神の愛を知るとき、私たちは初めて「完全な愛」を知ることができます。
私たちは、何かができるから価値があるのではありません。神が私たち一人ひとりを、かけがえのない大切な存在として愛してくださっているから、私たちには価値があるのです。
神様は、独り子を十字架にかけるほどに私を愛してくださっています。私の罪を赦し、救ってくださったのです。「私は神に愛されている存在なのだ」と知るとき、私たちは自分自身がかけがえのない存在であるという自信を与えられます。そうすると、他の人が自分をどう思うか、どのように評価するかが気にならなくなります。神に認められている、それが何よりの確かさだからです。
神様は私たちに語りかけておられます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節)
「愛」という言葉は、世の中にあふれています。しかし、神が語る「ここに愛がある」とはどこにあるのでしょうか。それは、十字架のイエス様の中にあります。私たちが神を愛したのではなく、むしろ神を知らず、背を向けていた私たちに、神がまず近づき、愛を示してくださったのです。
この神の愛によって、私たちは救われました。だからこそ、今度は私たちが他の人にこの愛を届けていきましょう。神の愛を豊かに受け取り、他の人をも愛する者となりましょう。私たちの人生の目的は、神を愛し、人を愛することです。この愛を受けた私たちが、互いに愛し合う者となりますように。
((ラパイ師記)
2025年6月29日
先週の木曜日に高等学部の合唱コンクールがありました。私が担当する今年の高三は中学生時代はコロナでほとんど歌という歌を歌ったことがなく、中3の時に経験した第一回目の合唱コンクールでは、見事に優勝を下級生に奪われた学年です。
JPOPが主流の中、かなりの背伸びをして高度な合唱曲「僕が守る」を選びました。かつてのレベルまで合唱コンクールを引き上げる、これが私の目標でした。この曲が生徒のものになるまでにはかなりの時間がかかりました。練習しても練習しても体が硬く、一体感がなく、私はYoutubeを見て上手な合唱団の体の揺れ方を学ぶように指揮者達に伝えました。「ここまで揺れるんだ」と驚いていましたが、歌うと自然と体が動くという事も難しくなっていた事に私が驚きました。
そして歌が自分のものになった途端、生徒はどこでも口ずさむようになりました。起きていても寝ていても、登下校中でもトイレでも、廊下でもグラウンドでも。気付けばどこにいてもメロディが頭の中を駆け巡っていました。歌が自分のものになる、すると歌詞が歌い手と聞き手を救うようになる。歌の力は凄いです!審査員達を圧倒させて、泣かせて見事優勝を頂きました。
銀色夏生さんの詞は素晴らしいです。是非ググってみて下さい。高校時代にこの歌詞のような体験ができたら、それこそ神様からのギフトです。「いつか君が僕を守ってくれたから、次は僕が誰かを守りたい」
(藤本 師記)
2025年6月22日
イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。(マタイによる福音書15章21節〜28節)
神を信じる者の特権とは何でしょうか。それは、神様を信じる者に対して、神様は決して裏切らず、最善を成してくださるということです。
マタイによる福音書15章26節で、イエス様は「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われました。もし私だったら、その時点ですぐに諦めてしまうかもしれません。イエス様のもとから去ってしまうかもしれません。しかし、この女性はそうせず、「助けてください!」と叫び続けました。彼女は言いました。「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」そのとき、イエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」と答えられ、娘の病気はいやされました。
では、なぜイエス様は「あなたの信仰は立派だ」と言われたのでしょうか。イエス様は彼女の姿を見ておられました。そして、本当にイエス様が御業を行ってくださる主であると信じているかどうかを試されたのです。この女性は、イエス様しか娘をいやすことはできないと確信していました。だからこそ、どんなに苦しくてもイエス様から離れようとしなかったのです。
この揺るがない信頼を見て、イエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言われました。どんなことがあってもイエス様から離れない。それは、主が決して私たちを見捨てず、受け入れてくださると信じているからです。だからこそ、信じる者の信仰は揺るがないのです。
最後に、カナンの女のように、私たちも苦しみの中にあるときこそ、「イエス様だけが避けどころである」という信仰をもって、日々、主と共に歩んでいきましょう。
「苦しいからこそ、神様から離れない」――このような信仰をイエス様は「あなたの信仰は立派だ」とおっしゃり、御業を成してくださいます。感謝いたしましょう。(ラパイ)
2025年6月15日
だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(コリントの信徒への手紙一10章12節〜13節)
人生には、必ず試練があります。けれども、試練があること自体が苦しみなのではありません。本当の苦しみは「逃れる道がない」と思ってしまうことから生まれるのです。
聖書 (コリントの信徒への手紙一10章13節)にはこのように書かれています「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」
イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架にかかって死に、そして復活されました。そのことによって、私たちに天の御国へと至る「逃れの道」を開いてくださいました。
神の愛は、今も聖霊の働きを通して現れ、必要なときに助け人を与え、私たちの心を慰めてくださいます。逃れる道が備えられているからこそ、どんな困難の中にあっても、人生をあきらめる必要はないのです。これまで信仰の中で辛い時期を乗り越えられたのは、その都度、神様が「逃れの道」を備えてくださっていたからです。
だから、これからも大丈夫です。なぜなら、神様は真実なお方だからです。この真実な神様を信頼し、私たち一人ひとりが遣わされている場において、信仰の道を力強く歩み続けてまいりましょう。(ラパイ)
2025年6月8日
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。(使徒言行録2章1節〜13節)
ペンテコステの日に、聖霊がイエス様の弟子たちに降り、さまざまな国の言葉でイエス様のことを語ったとき、信じる者もいれば、信じない者もいました。
しかし大切なのは、信じる者たちが起こされたということ、つまり、イエス様の救いにあずかる者、バプテスマを受ける者が起こされたということです。
弟子たちは、「酒に酔っているのだ」とあざけられても、語ることをやめませんでした。なぜなら、彼らは自分の思いで語ったのではなく、聖霊によって語らされていたからです。聖霊が彼らを黙らせることがなかったのです。そしてそれは、今も変わりません。
聖霊なる神様の導きの中に生きる教会、キリスト者は、イエス様の救いの恵みを語ることをやめることができないのです。
大切なのは、ペンテコステの日に起こった出来事とその意味を、今日の私たちが正しく学ぶことです。
その意味とは、私たちが聖霊を受け、聖霊に満たされることによって、キリストの証人として証しをする力が与えられる、ということです。それこそが、ペンテコステの出来事だったのです。
私たちが求めていくべきことは、聖霊に満たされ、聖霊の助けを受けながら、この愛と平和と喜びの福音を、この世に伝えていくことです。
聖霊が降り、教会が初めて誕生したペンテコステの出来事をしっかりと見つめ、その聖霊が今も私たちに豊かに働いてくださることを信じ、祈り求めながら、この一週も主と共に歩んでいきたいと思います。(ラパイ)
2025年6月1日
エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。
「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」(出エジプト記1章15節〜22節)
時には、どうしようもない現実が、私たちの前に立ちはだかることがあります。しかし、そんな現実のただ中にも、今日の聖書箇所に記されている2人の女性のような存在が、私たちの生活の中にもいるのです。
圧倒的な現実を前に、私たちは心が折れてしまったり、立ち尽くしてしまうこともあるでしょう。けれども、そうした時にも、必ず神の時にかなった助け手が与えられるのです。主なる神の知恵が、私たちに与えられるのです。
私たちがイスラエルを見つめるとき、神がどのようなお方であるか、また、神が何をなされるのかが見えてきます。神の証人であるイスラエルは、まず苦しみを通らなければなりません。それは、彼らが滅びるためではなく、罪の中にある人々を神がどのように救ってくださるかを示すためでした。
大師新生教会は、この77年間の歩みの中で、神様から数え切れないほどの祝福、平安、喜び、恵み、そして憐れみを受けてきたのではないでしょうか。その一方で、苦しみや悩み、困難、さまざまな問題にも直面してきたことと思います。今日は、神の恵み、守り、支え、導きの意味を改めて知る時、あるいは、それらを振り返り感謝する時であると思います。
出エジプト記を通してイスラエルの歩みを読むとき、神がどのように彼らを守り、導かれたのかを見ることができます。モーセの誕生からファラオの命令に至るまで、様々な人を通して神が守ってくださったのです。それは、神の民であるイスラエルの人々を、エジプトの奴隷状態から解放するためでした。日々の生活の中で、神様が私たちをさまざまな面で、さまざまな人を通して守ってくださっていることを思い起こし、感謝しつつ、これからも主と共に喜びをもって歩んでいきましょう。(ラパイ)
2025年5月25日
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(コリントの信徒への手紙一12章12節〜26節)
私たちが誰かの苦しみに共感し、その人の痛みを自分のものとして感じるとき、その人は孤独ではなく、支えられ、励まされるのです。
どんなに優れた能力を持ち、立派な奉仕ができたとしても、兄弟姉妹と共に歩んでいないならば、神様はそのような働きを喜ばれないのではないかと思います。
私たちが互いに苦しみ、互いに喜ぶことで、教会は強くされ、神の愛と恵みをこの世界に示すことができるのです。これまで、自分に与えられている賜物について考えてきたことはあるかもしれません。しかし、「キリストのからだの一部分」として自分を考えてきたことがあるでしょうか?兄弟姉妹の苦しみや必要を共に担うために、自分ができる奉仕を考えたことがあるでしょうか?
このような問いかけを自分自身にすることによって、私たちは神の栄光を現すことができるのだと思います。
誰かが泣けば共に泣き、誰かが喜べば共に喜ぶ──そうした愛の共同体、それが教会です。そして私たちは、その教会のかけがえのない一部分なのです。そのことに感謝しつつ共に進んでいきましょう。
最後に、私たちが自分の苦しみや喜びを、キリストの体の部分として、兄弟姉妹と共に歩む中で苦しみ、喜んでいるかということが大切なのです。このメッセージを心に留め、日々の生活の中で互いに支え合い、喜び合うことを続けて生きていきましょう。(ラパイ)
2025年5月18日
今日の聖書箇所に記されている「善いサマリヤ人」のたとえで、イエス様が本当に伝えたかったことは、「隣人についての狭い考えを捨てなさい」ということではないでしょうか。この律法学者は立派な人物でしたが、自分と同じように立派な人としか付き合おうとしませんでした。彼にとって「隣人」とは、ごく限られた範囲の人々だけだったのです。私たちクリスチャンにも、同じような傾向があるかもしれません。神に選ばれ、愛されている者として、悪い人々とは関わってはいけないと思ってしまうことがあるのではないでしょうか。私たちもこの律法学者と同じように、言い訳をしたり、自己弁護をしたりしてしまう弱さを持っています。時には、祭司やレビ人のように、困っている人を見ても知らん顔をしてしまう心が、自分の内にあることに気づかされるのです。
主イエスは、十字架の苦しみと死によって私たちの罪を赦し、復活によって永遠の命の約束を与えてくださいました。その神様の愛に応える者として、私たちも神様を愛し、さらに、主イエスがあのサマリヤ人のように、罪の中に倒れ伏していた私たちを憐れみ、隣人となって救ってくださったように、今度は私たちが他の人々の隣人となって生きることが求められているのです。
「行って、あなたも同じようにしなさい」という主イエスの言葉を、自分自身に語られた励まし、そして勧めの御言葉として受けとめましょう。そして、それぞれが出会う人々との交わりの中で、自らの手を差し伸べ、隣人となって生きていこうではありませんか。(ラパイ)
2025年5月11日
33歳で最初の職場(学校)を辞めて、上智大学の神学部で学び始めました。順調に単位が取れて、バプテスト同盟に神学校があることを思い出し、後期からの授業を二科目希望しました。そこで学んだ新約聖書釈義を通して、聖書は知識だけでなく、マインドを学ぶ必要があることを教えられました。それまでの仕事は体力の限界まで、ひたすらこなしたり、ストイックに自分を追い詰めて完璧に仕上げたり、そのように考えて取り組んでいました。しかし、神学校に行ってからは、仕事は、特に説教者の仕事はこなすものでなく、霊的に時間をかけて、心を込めて捧げるもので、ノルマやマニュアルはなく、いかに時間を調整して休み、何もしない日や時間を作り、聖書のみ言葉と格闘したり、神様に問うたりするものだということを学びました。それを社会で働きながら行うことは難しいのですが、「暇であること」「忙しくしないこと」をモットーにするようにしました。私の最大の学び、変化はこれです。マルタのように忙しくするよりもマリアのように、非難されてもやはりイエスの言葉を聞くことを選びたいのです。魂を養うためにも。(藤本)
2025年5月4日
祈りは必ず神様に聞かれるけれど、それは自分の願ったとおりになるということではないということを知っておくことが必要だと思います。私たちの祈りが叶えられない時、それは、私たちの願いそのものが神様の御心にかなっていない時、まだ時が満ちていない時、神様は私たちが願ったよりももっと良いものを与えようとしておられる時ではないかと思うのです。
主よ、すべてあなたの恵みの中で私たちに必要なものを与えてくださいと謙遜に祈る、祈りが必要であります。この日本では食べ物飲み物が多くあり、選択するのが困るぐらいですが、すべてがただ天の恵みであるということを私たちは覚えなければいけません。
手に入れたもののすべて、過ごしてきた時間すべて、歩んできた道すべて、ただすべてが主のめぐみではないでしょうか。この世に生まれたことも、ここまで歩んだことも、明日を夢見ることも、神の子とされたことも、ただすべてが主のめぐみです。主の恵みを感謝し祈り求め続けましょう。最後に、今日これから聖餐式に与ります。私たちは自分の罪には甘く、人の間違いには非常に厳しい心を持っています。聖霊様が私たちに新しい命を与えてくださりイエス様の愛を思い起こさせてくださらない限り、私たちは恵みを持って人を赦すこと、また自分自身を許すことさえもできないのです。どんな状況にあっても、全てはただ神の恵みであることを感謝し、希望を失わずに祈り続けましょう。(ラパイ)
2025年4月27日
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28章16節〜20節)
今日の聖書箇所で、十字架の上で命を落とされ、三日目に復活されたイエス様は、ガリラヤで弟子たちに会い、こう命じられました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。これは、「すべての人々に福音を伝え、神の子としなさい」という意味です。
しかし、イエス様はこの世界宣教の使命を、弟子たちだけに任せたわけではありません。それは、人間の力だけでは到底実現できないことだからです。主は最後の言葉を通して、大きな希望を示されました。
「全世界に出て行って、すべての民をわたし(イエス様)の弟子にしなさい」と言われた時、それは決して「一人で行きなさい」という意味ではありません。20節にはこうあります。「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます。」これは、“わたしも一緒に行くから、安心して従いなさい”という意味なのです。イエス様ご自身が、私たちと共に出て行ってくださるのです。
イエス様が私たちと共におられること、それが私たちの力なのです。イエス様は、弟子たちの弱さをご存じの上で、彼らを伝道に遣わされました。しかし、その弱さは問題ではありません。「世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます」という言葉は、「あなたの弱さを強く支える私が、いつも共にいる」という約束なのです。
同じように、イエス様は今の時代に生きる私たちにも、聖書を通して語っておられます。「わたしはあなたといつも一緒にいるよ」と語ってくださるイエス様の約束を信じ、安心して歩んでいきましょう。(ラパイ)
2025年4月20日
私たちは今、何を一番恐れているでしょうか。何に不安を感じているでしょうか。戦争や地震、自分の健康、そして人間関係など、さまざまなことが気になっているかもしれません。そして何よりも、私たちの心の奥底には「死」という問題があるのではないでしょうか。
しかし、イエス様はその死を完全に打ち破られました。イエス様が死に勝利されたからこそ、私たちには確かな希望があるのです。
私たちは自分の人生の中で、暗闇の中にいるように感じることがあるかもしれません。けれども、そうした中にあっても、私たちは勇気をもって、信仰の一歩を踏み出していくことができます。その時、私たちの暗闇に、光が差し込んでくるのです。
私たちは、どんなに涙を流すような悲しい出来事の中にあっても、たとえ病や障がいを抱えていたとしても、さまざまな問題に悩んでいる時であっても、「復活」という希望が与えられています。イエス様がよみがえられた――そのことを知っているだけで、私たちは大丈夫なのです。
私たちが生きる力は、死に勝利されたイエス・キリストから来ます。この復活の勝利、そして喜びの希望を胸に、この一週間も主と共に歩んでまいりましょう。(ラパイ)
2025年4月13日
いま世界ではウクライナとロシアの戦争、イスラエルとパレスチナの紛争、アジアではミャンマーでの軍事クーデターによる市民への弾圧と地震などが報じられている。一方、アフリカ大陸では軍閥による混乱が続いている。コンゴ民主共和国で医師であり軍閥によって性被害を受けた特に女性の形成手術をし、社会復帰のプログラムを長年行っているノーベル平和賞受賞者デニ・ムクウェゲ氏は昨今の戦争報道について怒りを露わにしている。「ルワンダの大虐殺を起点に、アフリカ各国に散った軍閥により数十年以上続くアフリカの戦乱について報道は見向きもしない。大勢のアフリカの国々の民が殺され、男女問わず最も安価な兵器としてレイプが行われ、親を殺された子供は軍閥により躊躇なく人を殺す人間兵器に仕立て上げられている。」シモーヌ・ヴェイユというキリスト教哲学者は「祈りとは注意力だ」と語った。神への注意力は勿論だが、私たちが世界への注意力を如何に持つかが問われている。(矢田部)
2025年4月6日
主の御名をほめたたえて主にある平和がありますように祈ります。
まず、日本語が不十分な私を主任牧師として迎えてくださった大師新生教会の皆様に心から感謝いたします。皆様と手をつないでこの地域で神様の御言葉を伝えることができることを大変うれしく思っております。皆様の助け、支えのもとに私も精一杯頑張ります。今日からお世話になります。よろしくお願いいたします。
今日は、特にイエス様の十字架の死という出来事をしっかり心に刻みたいと思います。私たちは、普段以上に主イエスの御受難を覚えて、そのことのゆえに神との平和をわたしたちが今、得ていることを感謝したいと思います。
私たちにとってイエス様の十字架の苦しみはどのような意味があるでしょうか。そして、何のためにイエス様はここまで十字架で苦しまれたのでしょうか。それは、私たち一人一人の罪のためでした。
今日の聖書箇所42節に「他人は救ったのに、自分は救えない。」とあります。
なぜ、イエス様はこの時ただ、だまったまま、何もなさらなかったでしょうか。力ある技を持って、自ら神であることを示すことも、簡単にできるはずです。
「他人は救ったのに、自分は救えない。」他の人を生かすために自分を生かそうとしない、それこそが福音そのものです。人を生かすために自分を犠牲にして行く道、その道を歩まれたイエス・キリストのように、私たちが進むべき道もそのような道であると信じます。十字架の苦しみ、それは、人を生かすための苦しみでした。私たちも、イエス様が歩まれたその道、十字架の道をイエス様に倣って歩んで生きていきましょう。(ラパイ)

