大師新生教会大師新生教会

主日礼拝

2020年5月24日 主日礼拝

黙 祷 
讃 美 歌69「さかえに輝く」
主の祈り 
聖 書マルコによる福音書2章1節〜12節
(新約聖書63ページ)

数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。主はこう言われる。
祈 祷 
説 教「価値観の衝突」
藤本 忍 牧師

 コロナ騒動の中、先週一人の卒業生が部活の顧問に会いに学校にやってきました。普段であれば当たり前のことですが、時期が時期でしたので驚きました。在学中も大人しく、自己主張をするような生徒ではありませんでした。ですから尚更驚きました。良識的な人が自分に降りかかってくる危険や批判を顧みず、学校を訪ねて来るなんて、よほど切羽詰まっていたに違いないと思いました。対応した顧問は少し話して最後にこう言ったそうです。「毎日更新している学校のHPを見なさい。そこに私達教員からの礼拝のメッセージが綴られています。それが私達の全てです。だからそこに書かれているメッセージを読みなさい。そうすれば必ず力を得るから」と。それで帰った卒業生も、それを言った顧問も見事だと思いました。
 私もこの時期に何人かの方と会いました。感染するかもしれない、感染させるかもしれない、会いたいと言っても断られるかもしれない、そういう様々な思いと葛藤して、出て来た言葉が「会えますか」という一言だったと思うのです。ですからお会いしました。どの方もアイデンティティや命に関わる深刻なことでした。自粛要請の中、自ら危険を冒し、更に批判されるかもしれないという覚悟の上でのことでした。
 価値の衝突、葛藤は真剣に生きれば生きるほど起こるものだと思います。誰もが知っています。人の家を壊してはいけないことくらい。現代であれば器物破損の罪に問われます。でも四人はどうしても中風の友人を主イエスに出会わせたかったのです。切羽詰まっていたのです。正しいと言われている価値、そちらを選んでおけば無難だと思われる価値、というものがあります。しかし、私達人間は時に、そんな無難な生き方や正しい在り方を捨てて、障害や限界、社会的制限を越えて、救いを求めるのです。どうしても会って確かめたいのです。なぜならそこにしか希望を持てないからです。
 主イエスはそういう人の中に信仰を見てとられました。命をかけてやって来た人間に対して、順番を守れとか、人の家を壊してはならないとか、そういう野暮なことは言わない方でした。なぜなら、主イエスご自身が当時のユダヤ社会、ローマ世界の大きくてビクともしない価値観と闘っている方だったからです。病は罪の結果と思われていた時代に「あなたの罪は赦された」と言い、大きな波紋を残し、「起きて歩け」と身体的具体的な癒しも与え、大きな力を示されました。特に罪の赦しを与える権威は神にしかないと思われていた時代に、主イエスの言葉と行為は神を冒?したことになり、この後、殺害される要因の一つになっていきます。良くも悪くも全てを神に委ねたことにして、貧しさで苦しむ人々、病で苦しむ人々を放置したばかりでなく、差別し関わろうとしなかった当時の権力者達とは大きな違いです。価値観の衝突で闘っていたのは、主イエスご自身なのです。だからこそ、主に望みをおく人は、一か八かの切羽詰まった自分をそのままぶつけたのです。主イエスもそうやって境界線を越えてくる人々を大いに褒め、受け入れたのです。そして神に望みをおく者同士の出会いが、奇跡を起こしたのです。全世界を敵に回してでも、主イエスが「あなたの罪は赦された」と宣言してくれたからこそ、人々は新しい力を得たのです。罪の赦しの宣言がどれほどの人を救ったかわかりません。「主に望みをおく人は、鷲のように翼を張って上り、走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ書40:31)」主に出会った私たちは、その言葉が真実であることを証しする者であります。
祈 祷 
讃 美 歌121「まぶねのなかに」
献 金 
祝 祷藤本 忍 牧師
黙 祷