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主日礼拝

2020年5月17日 主日礼拝

黙 祷 
讃 美 歌353「いずみとあふるる」
主の祈り 
聖 書イザヤ書43章16節〜20節
(旧約聖書1131ページ)

主はこう言われる。
海の中に道を通し
恐るべき水の中に通路を開かれた方
戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し
彼らを倒して再び立つことを許さず
灯心のように消え去らせた方。
初めからのことを思い出すな。
昔のことを思いめぐらすな。
見よ、新しいことをわたしは行う。
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。
野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。
荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ
わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。
祈 祷 
説 教「砂漠に大河を流れさせる主」
益 巖 牧師

 イザヤは言います。「見よ、新しいことをわたしは行う。今やそれは芽生えている。わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる。」
 荒れ野に道を敷くとは、単に道をつくるということではなく、荒れ野の岩を取りのけ、でこぼこの所を平らにし、通りやすくするということです。そして、砂漠に大河を流れさせるというのですから、砂漠に水を流れさせることによって、緑の野に変えるということでしょう。これは、イザヤが主から受け取った思いです。だれに向かって語りかけるようにとイザヤは受け取めたのかといえば、今、バビロンに捕囚されているイスラエルの民に向かって語るようにと受け取ったのでした。イスラエルの民が捕囚されているバビロンから、荒れ野を超えて、故郷に帰ることが起こるという事を語りかけるようにとイザヤは示されたのでした。しかし、この言葉を聞いたイスラエルの民は、にわかにアーメンと受けとめたとは思えません。なぜなら、彼らは、すでに50年もの間、バビロンに捕囚されていたからです。この捕囚の状態から解放され、故郷に戻れるなどとはとても思えなかったことでしょう。しかし、イザヤは、主がそのことを行ってくださること、バビロンからエルサレムまでの道を導いてくださること、さらには、その途中の砂漠と変わり果てている場所に大河を流れさせて下さり、緑の大平原に変えて下さるというビジョンを得たのです。
 このビジョンは決して昔の事ではなく現代に生きる私たち自身に向けられた言葉だと思います。昨年12月4日、アフガニスタンの地で医師として働いて来られた中村哲さんが仕事場に向かう途中で何者かに命を絶たれました。その仕事場とは、渇いた砂漠に用水路を造り出し、砂漠を緑の大地に変えていく場所でした。中村さんは、すでに27キロもの用水路を造り出しておられました。そのことによって、福岡市の約半分の面積の16,500ヘクタールが緑の大地に変えられていました。そして、そのことによってその大地で働く農民65万人の生活を守られていたのです。
 中村さんは、この用水路27キロが完成した時に詩編23編を引用して言われています。
 「主は牧者なり、われ乏しきことあらじ。主は我を緑の野にふさせ、憩いの汀に伴いたもう。たといわれ死の陰の谷を歩むとも、禍を恐れじ。汝、我と共にいませばなり。かならず恵みと哀れみとわれにそいきたらん。 ―中略― 自然は喋らないが、人を欺かない。高く仰ぐ天が、常にあることを実感させる。」と。
 (『天、共に在り』 中村 哲著 NHK出版 2020年2月 第3刷 208頁)
 中村さんは厳しい歩みの中に主が共におられたことを実感されています。この渇いた砂漠を緑の大地に変えていくプロジェクトを中村さんは、アフガニスタンの多くの人々を信頼して共に働くことによって成し遂げておられたのです。わたしたちも、今は、厳しい時代に生きていますが、主が共におられるとの信仰の中で、乗り越えていきたいと思います。
祈 祷 
讃 美 歌494「わがゆく道いついかに」
献 金 
祝 祷益 巖 牧師
黙 祷