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主日礼拝

2020年5月10日 主日礼拝

黙 祷 
讃 美 歌二編177「あなたも見ていたのか」
主の祈り 
聖 書ヨハネによる福音書20章24節〜29節
(新約聖書210ページ)

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
祈 祷 
説 教「主イエスの瞳に映るもの」
矢田部 康夫 伝道師

 先ほどの讃美歌第二編177番は黒人霊歌です。表題は「Were you there when they crucified my Lord?」となっていて「あなたもそこにいたのか?」との題名で、そして疑問文で書かれています。「あなたもそこにいたのか?」私たちはこの讃美歌を歌うときにそう問われるのです。「あなたもそこにいたのか?主が十字架につけられたとき」と。
 今日の聖書は、19節〜23節、表題「イエス、弟子たちに現れる」という物語の続きとして語られています。あの夜、主イエスは祭司長の手下や兵士によって捕まり、十字架にかけられ、死んでしまいました。そして主イエスは墓の中へと葬られました。主イエスが捕らえられたとき、弟子たちは全員、逃げ出してしまった。自分たちも捕まるのが怖かったからです。
 復活の日の夕方、主イエスの弟子たちはユダヤ人を恐れて家の中に隠れていました。恐れている彼らに復活の主イエスが現れ、「あなたがたに平和」と語りかけます。手とわき腹とを見て、弟子たちは喜びました。しかしこのとき、12弟子のひとりのトマスはその場にいませんでした。
 トマスは主イエスが力ある救い主であると、信じて従ってきました。しかし主イエスが十字架にかけられたとき、トマスは希望を失いました。「こんなはずじゃなかった。世の力に主は負けてしまったのだ」と思ったのです。私たちも自分の希望が絶たれたとき、「こんなはずじゃなかった」と呟きます。
 「主イエスが復活した」という弟子たちの告白をトマスは信じられません。トマスは「彼の手に釘跡を見、この指を彼の釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と誓うのです。トマスにとって「主イエス」はもう「主」ではなく「彼」なのです。
 不思議に思うのですが、トマスは、弟子たちは、なぜ主イエスの十字架の「手の釘跡」、槍で刺された「脇腹の傷」を知ったのでしょう。主イエスが捕えられたとき、弟子たちはみな逃げてしまった。しかしペトロは主イエスを追って大祭司の庭に行ったことはよく知られています。ペトロだけではなく、他の弟子たちも隠れながら主イエスを追いかけたのではないか。弟子たちは十字架のあるゴルゴダの丘にいた、即ち「そこにいた」のです。弟子たちは「そこ」にいて主の十字架の「手の釘跡」、「脇腹の傷」をその目で見ていた。だから弟子たちは主の傷を見たとき、「あの主イエスだ」と喜びました。
 「そんな馬鹿なことがあるか。自分の希望を委ねたあの力ある方は、十字架上で死んでしまったのだ。」トマスは未だこんなはずじゃなかった、という「自分の思い」に支配されています。目の前で十字架にかかって死んだ、主イエスが彼の中の事実なのです。「彼の釘跡に私の手を入れてみなければ、また、彼のわき腹に私の手を入れてみなければ、私は決して信じない。」とまで言ったのです。トマスは「私」「事実」に囚われています。
 次の週の日曜日、トマスは弟子たちと鍵の閉められた家の中にいました。主イエスは彼らの真ん中に立ち「あなたがたに平和」と語りかけます。そしてトマスに向かって両手を広げて「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と誘ったのです。
 主イエスの瞳はトマスに語りかけるのです。「あなたが私を裏切ったことを、私はすべて知っている。あなたがゴルゴダの丘にいたことも私は知っている。私は十字架の上からあなたを見つめていたのだ。私は心の奥底で罪に苦しむあなたの姿を見ていた。私の手の釘跡に、脇腹の傷に、あなたの手を差し込みたければ差し込めばいい。なぜならこれらの傷はあなたの罪の赦しの為に私が代わったものなのだから。この傷はあなたのものなのだ。」
 両手を広げて、傷をトマスに示す、主イエスの瞳に、トマスの罪と主の赦しが映し出されていました。トマスは答えて「私の主、私の神よ」と告白します。トマスも確かに「そこにいた」のです。あのゴルゴダの丘で見た十字架は私の罪の為の十字架であったことを。
 主イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言います。見ないのに信じる人は、確かに幸いです。しかし疑い惑うトマスのもとに主イエスは現れてくださった。主イエスは私たちのすべてを知るお方です。主イエスは私たちのもとに今も現れてくだいます。そのとき私たちは自分の罪と主の十字架の赦しを見るのです。そして「わたしもそこにいた」と証しするのです。
祈 祷 
讃 美 歌243「ああ、主のひとみ」
献 金 
祝 祷益 巖 牧師
黙 祷