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主日礼拝

2020年4月26日 主日礼拝

讃 美 歌148「すくいのぬしは」
主の祈り 
聖 書ヨハネによる福音書21章15節〜19節
(新約聖書211ページ)

 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
祈 祷 
説教要旨「赦しと自由」
藤本 忍 牧師

 まるで言葉遊びでもしているかのようである。主イエスは、ペトロに「私を愛しているか」と聞く。しかも三回も。ペトロも三回「それはあなたがご存知です」と答える。これは三回主イエスを否んだことが背景にあるのは確かである。主イエスが使う「愛しているか」と聞く「愛する」という単語と、ペトロが使う「愛している」という単語は異なる。そこに拘ることはないという学者や説教者も多い。しかし、私は気になって仕方がない。単なる言葉遊びをしているとは思えないからである。
 主イエスは二回「アガパオー」という神が主語の時に使われる「相手の在り方関係ない一方的な無償の愛」を表す言葉を使われた。それに対してペトロは最後まで「互いに支え合う友愛」を意味する「フィレオー」で返している。三度主を「知らない」と言った彼が、もう二度と大きな口を叩くことなく、謙虚になっていることがその言葉から受け止められる。そう感じるのは私だけではないはずだ。もはやかつてのペトロとは違う。だからこそ主イエスも、「ヨハネの子、シモン」と呼び掛けられたのであろう。ご自分が付けたあだ名「ペトロ」でなく。そして、ペトロ自身も自分の愛がどのようなものであるか、主張しない。彼は「それはあなたがご存知です」とその判断を主イエスに委ねている。あの否認が自分にとっていかなる意味を持ち、自分の愛がいかなるものか、それは「あなたが一番わかっているはず。私こそ、あなたの赦しが最も必要な者である」と。
 最後の主イエスの問いは、ペトロがずっと使っていた「フィレオー」になっている。「互いに支え合う愛で私を愛するか」と。「そうです。私の愛はあなたの支えが必要です。それはあなたがご存知です。」とペトロ。彼は自分の過去を思い出し悲しくなる。でもその悲しみは主イエスから三回も聞かれて悲しいのではない。人を裏切り、捨てた悲しみはそう簡単に忘れられないのである。そして、忘れてもならない類のものでもある。それが彼の信仰の基であるからである。
 キリストは、自分を否んだシモンに他の弟子達、そしてこれから先、増えるであろう兄弟姉妹の世話を託された。常識から考えてあり得ないことである。しかし、それが私たちの主イエスのなさることである。託されたシモンは、最後には主イエスと同じように、自分が望まない所へ誰かに連れて行かれると主イエスによって預言される。しかし、自分の意志とは関係なく、連れて行かれて、そこで神の御栄光を表すなど、本当の意味で「自我を捨て自由になった者」でなければできないことである。
 主イエスとシモンとのやり取りは主イエスの愛は決して変わらない、ということを教えている。私たちの在り方次第で変わるような代物ではないのである。主を裏切り、それ故に傷つき、崩れた信仰の所有者となったシモンを、主はそのまま放置される方ではない。むしろ愛において彼を再びご自身の元に招かれ、新しい務めを託される。最も深く傷ついた者は、主の愛によって癒しを受け、その愛に相応しい者へと造り変えられていくのだ。
祈 祷 
讃 美 歌502「いともかしこし」
献 金 
祝 祷藤本 忍 牧師