大師新生教会大師新生教会

主日礼拝

2020年4月19日 主日礼拝

讃 美 歌154「地よ、声たかく」
主の祈り 
聖 書ルカによる福音書24章13節〜35節
(新約聖書160ページ)

ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
祈 祷 
説教要旨「イエスはともにおられる」
益 巖 牧師

 新型コロナウイルスの感染拡大という事態を受けて、大師新生教会始まって以来の礼拝 を行っています。教会では教師だけで礼拝を行い、信徒の方がた、あるいは礼拝に通常お見えの方がたはご自宅で、動画やすでに送られた礼拝の順序に従ってともに礼拝を守っています。この困難な状況が一日も早く解消されて共に礼拝が守られますようにと祈っています。
 今朝は、イースター、主の復活の時から一週間が過ぎた日曜日です。この日に私たちはエルサレムから11キロほど離れたエマオという村に歩いていく二人の弟子たちの姿を見ます。その二人の足取りは重いものでした。人は自分たちに希望や目標があれば、つらい歩みでも乗り越えられるでしょう。しかし、この二人は、暗い顔をして歩いていたのです(17節)。なぜなのか。それは、二人がこの方に従っていけば、自分たちの願い「イスラエルの解放」が実現するという希望が打ち砕かれたからです(21節)。この方とはイエス様でした。しかし、そのイエス様が捕らえられ、十字架につけられ、殺されてしまったのです。これからどのように歩んでいけば良いのか分からないでいたのでした。しかし、二人は自分たちの仲間のものが、イエス様の葬られた墓に行くと、イエス様のからだが見あたらなかったということ、そして、天使が現れ、「あの方は生きている」ということを告げられたのでした(23節)。それは、一体どういう事なのか、分からずに重い足取りで歩いていました。
 その時に見知らぬ人が近寄ってきて、一緒に歩いていたのです。
 私たちも、自分の目標を失って歩いている時があります。その足取りは重くて、どんなに短い距離でも遠く感じるものです。わたしの住んでいる家の前をたまにぺったん、ぺったんという足音が聞こえます。ご近所に住んでいる方の足音です。その方は片足が不自由で杖をついて歩いておられます。そして、そばを奥様が一緒にゆっくりと歩いているのです。多分、脳梗塞か何かで不自由になられ、リハビリをかねてゆっくりと歩いておられるのでしょう。その姿を見ながらほほえましいなと思います。しかし、共に歩かれる夫人の日常は大変なものでしょう。ご主人が服を着ること、また服を脱ぐこと、あるいは食事をすること、すべてがゆっくりとしたペースで行われているでしょう。その歩みを共にされること、大変なことです。イエス様は、エマオという村まで二人の弟子たちと一緒に歩いておられます。
 イエス様は、私たちの日常の中で、目標を失いがっかりしているときに、一緒に歩んでくださっているのです。イエス様は、この苦難の中にある時、今朝も一緒に歩んでいてくださっています。イエス様が共に歩んでくださっていることに感謝して、私たちも歩んでいきたいと思います。
祈 祷 
讃 美 歌151「よろずの民、よろこべや」
献 金 
祝 祷益 巖 牧師